2012年12月1日〜15日
12月1日 セイレーン 〔わんごはん〕

 この前、ご主人様とマーケットで買い物をしていた時、へんな人が来た。

 ぼくのファンだといって、プラハやウィーンでの演奏を熱烈に褒めてくれた。

 そこへ会計を済ませたご主人様が帰ってきた。その男は眉をひそめ、

「きみは中国人に飼われているの?」

 さらにご主人様に向かって、偉大なマエストロを虐待して恥ずかしくないのか、と言い出した。

 ご主人様はポカン。ぼくはあぶないやつだ、とわかってご主人様をひっぱって、マーケットを出た。
 そいつは叫んだ。

「きっとわたしが助けるよ」


12月2日  セイレーン 〔わんごはん〕

 今日はご主人様と鉄板焼き。焼きそばとか、ホタテとか焼きながら食べる楽しい晩御飯だ。

 もっとも焼くのはご主人様。ご主人様が金属のヘラでぱっぱっとひっくり返し、アツアツのをぼくの皿にいれてくれる。
 肉もキャベツもアツアツでうまい。

「焼きそば、おいしい!」

 ご主人様は「そうかい」と笑った。ちょっとさびしそうだった。

「おまえ、自由になりたいかい」

 唐突にいった。ぼくはびっくりして見返した。ご主人様は、また言った。

「ヴィラを出たいかい?」


12月3日 セイレーン 〔わんごはん〕

 ぼくは目をしばたいた。

「なんで、そんなこと言うの」

「いつまでもこのままじゃダメだろう」

 ご主人様は肉をジュージュー焼きながら、

「ピアニストとして、もっと世界で活動しなきゃいけないし――、それにそろそろ嫁さんもらって子どもこさえたりもしたいだろ」

 ――なにこれ。

 このひと、ぼくを捨てる気なのか。そう思ったら、ふいに息苦しくなった。胸がドキドキした。
 ご主人様はいつもと違うこわばった声で、

「ここじゃまともな調律師もつけてやれない」


12月4日 セイレーン 〔わんごはん〕

 調律師のことで、昔、ご主人様とケンカになったことがあった。

 ヴィラにもピアノ調律師はいるけれど、ぼくの好みの調律ができなかった。
 合わないピアノで弾くとイライラするし、体調悪くする。

「でも、あとから呼んでくれた人はよかったよ」

「おまえ、そいつにも文句つけてたじゃないか」

「文句じゃない。鍛えて完璧にしてもらったんだ」

「とにかく、こんなところにいたらおまえは成長しない」

 その言葉でわかった。あの野郎だ。マーケットの変なやつだ。


12月5日 セイレーン 〔わんごはん〕

 あの変なファンのやつが、ご主人様に何か吹き込んだ。有望なピアニストの成長をとめているとかなんとか言われて、マジメなご主人様は真に受けたのだ。

「いやだよ」

 ぼくは言った。

「ぼくはあなたのところにいる。いっしょに暮らしていて幸せだもの。あなたの家族も好き。日本も好き。国に帰って、ひとりぼっちの気難しいマエストロになるよりずっといい!」

 ご主人様はふいに変な顔をして、席をたった。
 肉はちぢんで黒く焦げていた。


12月6日 セイレーン 〔わんごはん〕

 どうしよう。
 夜ベッドにもぐりこんでもご主人様は何もしてくれなかった。ずっと背中をむけたままだ。

 今日の練習の時間も、いつもは隣の部屋にいるのに、今日は外に出て行ってしまった。

 もう、心のなかでぼくの荷物を片付けているみたいだ。

(絶対にいやだ。外に出るなんて!)

 ぼくはうろたえた。おかしいという人がいるかもしれないけれど、理屈じゃない。ご主人様に捨てられるなんて気が狂いそう。

 CFの中庭で苦悩していたら、直人が声をかけてきた。

「海苔巻き作ったんだ。食べない?」


12月7日 セイレーン 〔わんごはん〕

「ノリマキ!?」

 おお! これ大好きなんだ! 
 よろこんで頬張った。かみ締めるうちに、あごの脇が痛くなった。

 ノリマキ。ご主人様の義姉さんも作ってくれた。
 桜の花見もした。とてもきれいだった。とっても幸せだった。

 ノリマキがもう咽喉に入っていかなくなり、耐え切れず声をあげて泣いてしまった。

「なに、なに? どうしたの」

 直人があわてて背中をさすった。
 ぼくは彼に悩みを話した。ノリマキと、いや、ご主人様とお別れなんて、ぼくの人生終わりだ。


12月8日  セイレーン 〔わんごはん〕

 ぼくは直人に話した。
 直人はじっと黙って聞いてくれた。そして言った。

「わかるよ。ぼくも同じ悩みを抱えてる」

 直人は日本料理のシェフだ。ご主人様から再三、そろそろヴィラを出て、もう一度料理の世界に戻らないかと言われているらしい。
 ぼくは彼のために憤慨した。

「日本のご主人様って、なんでそうなんだろう!」

「……日本人にとって仕事は神聖なものなんだよ。他人の仕事であっても」

「ぼくはちがう! 神聖なのはぼくの人生だ! 愛がなかったらピアノもない!」


12月9日 セイレーン 〔わんごはん〕

 興奮していたら、アルが来た。

「わたしも愛に一票。で、なんの話?」

 アルにも話した。彼は聞き終わると、ちょっとだまって遠くを見ていた。
 やがて、

「で、ふたりの腕前はここに来て、退化したの?」

 直人は硬い顔をして黙った。ぼくはすぐ言った。

「後退はない! ぼくの音はよくなった! 前とは違う。ぼくは前の自分より、今の自分の音のほうが好きだ」

 アルはニッコリした。

「じゃ、話は簡単だね」


12月10日 セイレーン 〔わんごはん〕

 あの男をつかまえるのは大変だった。
 ぼくはほとんど人の顔を覚えないから、家令に探してもらうのにも一苦労。

 でも、呼び出してもらったら、すぐにやつは現れた。
 やつが顔を真っ赤にして何か言おうとするのをさえぎり、ぼくはCDを手渡した。

「これ、日本でこの前収録したもの。シューベルト。前のCDと聞き比べてください。そして、正直な感想をぼくのご主人様に言ってください」


12月11日 セイレーン 〔わんごはん〕
 
 その日、ぼくは中庭に七輪を出して、リンゴを焼いていた。

 七輪というのは日本のちっさなバーベキューコンロ。ここで焼くとなんでもおいしくなるらしい。

「焼きリンゴか」

 いつのまにか、ご主人様がうしろに立っていた。

「おれにもくれよ。――その醤油とマヨネーズはつけないで」

 ぼくがミトンでとろうとすると、ご主人様がさっと自分でとった。フォークで突き刺して、熱い皮に歯をたてた。
 そして、聞いた。

「クリスマス、なにがほしい?」

 ぼくは気づいた。ご主人様の声がまたのんきになっていた。


12月12日 セイレーン 〔わんごはん〕

 心のなかにパアッとあったかいものがひろがった。ぼくは興奮して、いそいで言った。

「クリスマスは香辛料セット。オショウガツはね。日本の温泉旅行」

「正月もねだるのかよ」

「来年の誕生日ののも、もうあるよ」

 ぼくはご主人様に抱きついてキスした。ご主人様は何か言おうとした。結局、ちょっとうなずいただけで、言うのはやめた。

 でも、いっしょにいられるのはわかった。ずっとまた楽しくいっしょにいられる!


12月13日 セイレーン 〔わんごはん〕

 あの男とは偶然会った。彼はいそいそ寄って来て、先日のCDで感動したと言った。

「特に『さすらい人幻想曲』。あなたは、――あなただった。優雅、陽気、蟲惑的なセイレーン――それに大きくなった。ゆたかな波に揺さぶられるようでした」

 彼はあやまった。

「わたしは早合点しました。でも、今でもあなたの演奏を生で聞きたい気持ちに変わりはないのですよ」

「来年の春、東京でリサイタルをやります」

 ぼくが言うと、彼は目を輝かせた。

「素晴しい! かならず、行きます!」


12月14日 セイレーン 〔わんごはん〕

 CFで直人と会った。
 ぼくは直人にことの顛末を話した。来年の東京でのリサイタルのことも言うと、彼はよろこんでくれた。

 一方、直人も主人と話し合ったらしい。

「アルに聞かれて、ぼくは正直、答えられなかったんだ。技術的な後退はないものの、進歩もない。でも、料理の世界に戻りたいかっていうと、まだハラが決まらなくてね」
 
 いちおう、テストは受けたんだよ、とかなしそうに笑った。

「まだダメだって。もう少しここで修行さ」


12月15日 直人 〔わんごはん〕

 板長は箸をおいて、静かに言った。

「ひとさまに料理を出すのはやめたほうがいいでしょう」

 ぼくは凍りついた。突き落とされたようなショックとともに、やっぱり、という感じがした。
 主人はわざと間抜けをよそおい、

「どこがいかんのですか。凡人には違いがわかりませんが」

 聞いてくれたが、板長は憮然と突き放した。

「このひとは自分でわかってますやろ」

 涙が出そうだった。
 ぼくはわかっている。ぼくの作る料理は濁っている。料理じゃない。毒だ。


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